建立実行委員会
宮崎特攻基地慰霊碑建立趣意書
戦後、既に30有星霜…ここ南国宮崎の空はますます碧く澄みわたっています。私たちは、現在平和と繁栄の生活を享受しております。然し、この平和と繁栄の陰には、戦時における数多くの国民の犠牲、数百万の死者、傷病者、大多数の国民の困苦欠乏の生活があったことを忘れてはなりません。中でも前途有為な若い陸海軍特別攻撃隊員が、ただひたすらに最後の勝利を信じて“祖国のために”を合いことばに散っていった事実は、私たちの心を深く打ったのであります。あの悲惨な結末に終わった第二次大戦末期を象徴するあまりにも悲しい特別攻撃隊の最後を忘れることは出来ません。
想いを遠く当時に巡らせば国家未曽有の危急を救わんものと、昭和18年12月1日「宮崎海軍航空隊」及び「赤江航空隊練習部」として開隊、以来多くの殉国の念に燃えた若人が、ここ宮崎海軍航空隊に参集し、青春の情熱を傾けて血みどろの猛訓練に励み、南海の空の戦場に巣立っていったのであります。
太平洋戦争においては名実共に我が航空戦力の中核となり無敵の空域を誇ってきましたが、戦局我に利あらず連合国軍が比島を経て沖縄及び本土に迫り、陸海軍の搭乗員は殆どが特別攻撃隊員となり、一機一艦の体当たり攻撃を敢行し祖国日本のために一命を捧げたのです。
それは決死ではなく必死の状況に直面した若鷲達は、難しい死生観とか、戦争の善悪を論ずるよりも、我が身命を捧げることにより愛する肉親や懐かしい故郷、そして祖国日本を救い得るならばの一念に燃えて、未曽有の国難に殉じていったのであります。
英霊の功績は勿論のこと生存者各位の貴重な体験は、まさしく歴史の一頁に相当するものであります。戦後、めまぐるしく変転する国際情勢にあって全国民の努力の結果、祖国日本の復興も信じられない程の早さで進み、今日の平和な経済成長と安定した生活を続けています。
想いを新たにいたしますと、第二次大戦において国家未曽有の困難に救国の至情をひたすら傾けて、日本の安泰と繁栄を信じて殉じた私達の父母、兄弟、姉妹、先輩、友人があったことを忘れてはならないと思います。既に半世紀に近く経た今日、日本国民の福祉と世界平和を心から願うとき、思いを英霊の胸中にはせ今後再びこのような筆舌につくせない戦火の惨禍が繰り返されないことを誓い、英霊の遺徳を後世に伝承しなければならないと思います。
私たち生存者が戦中から戦後「成してきたこと」「成しつつあること」を世に訴え残された人生に「何を成すべきか」を問いかけ今回の慰霊碑建立となったのです。
御承知のとおり旧宮崎飛行場は、昭和18年12月1日宮崎海軍航空隊として開設され、昭和20年8月15日の終戦にいたるまで、沖縄作戦をはじめとする日本防衛の南九州最大の航空基地の一つとして、陸海共同作戦を含む数多くの戦闘作戦に、特攻隊出撃基地となって戦史に残る偉跡の地でありますが、この史実が殆ど忘れ去られようとしていることは、甚だ遺憾とするところであります。
37年の歳月と変容によって当時の宮崎航空基地の面影をしのぶようすがもありませんが、今年早くも終戦記念日を迎えるに至って、未だ、このゆかりの地に、これらの人々の霊を迎える碑の建立がないことは忍び難いものがあります。
このたび旧陸海軍搭乗員出身生存者の組織する、宮崎県甲飛会・宮崎県雄飛会・宮崎県学鷲会・宮崎県陸少飛会、及び旧陸海軍在籍部隊会が、ここに起って、宮崎県(市)遺族連合会、英霊にこたえる会・宮崎県海友会・地元協力会・明るい社会づくり宮崎県推進協議会及び民間航空殉職者遺族会、陸海空自衛隊航空殉職者の皆様方の絶大な御賛同を戴き、現在県下唯一の民間空港となったかつての特別攻撃隊の出撃の地旧宮崎航空隊跡地に慰霊碑建立を決め、広く宮崎県民及び全国の有志に訴えて、第二次大戦における戦死(没)者は勿論のこと、昭和20年3月18日以降の宮崎市空襲における戦災死亡者及び、昭和34年5月24日以降運輸省航空大学校所属機(航空大学校所在地 宮崎市大字赤江)及び、民間航空会社の航空事故における航空大学校殉職者の霊を合祀し、ご冥福を祈り、空の安全と平和日本の礎として後世に伝えたいと思います。
ここに慰霊碑建立の気運が高まり、慰霊碑建立基金の募金運動を展開することになりました。私たちはこの悲願達成に、全力をあげて推進の労をいとわない覚悟でございます。「宮崎特攻基地慰霊碑」建立について、各界、各方面の皆様から御理解あるおことばを戴き厚く御礼申し上げます。
微意の存するところをお汲み取り下さいまして、慰霊碑建立趣旨に御賛同くだされ、応分の御支援を賜りますようお願い申し上げます。
昭和57年5月15日 (沖縄返還記念日)
宮崎特攻基地慰霊碑建立実行委員会 |