赤江基地は昭和18年12月1日(1943年)付けで海軍航空隊の練習基地として開隊した。隊門には2枚の表札があり、右側には「宮崎海軍航空隊」、左側には「赤江航空隊練習部」と記されていた。駐留機は一式陸上攻撃機であった。昭和19年7月(1944年)「赤江基地」は「練習基地」から作戦基地への編成方針が打ち出された。
昭和19年9月下旬に第三四一航空隊の戦闘四〇二飛行隊、10月中旬に第七六二航空隊の攻撃四〇五飛行隊と攻撃四〇六飛行隊が展開された。昭和19年8月末の基本配備では攻撃四〇五飛行隊の「銀河」48機、攻撃四〇六飛行隊の「銀河」48機、攻撃五〇一飛行隊の「銀河」24機であった。
昭和20年8月1日(1945年)現在の宮崎海軍航空隊の現状は、滑走路はコンクリート舗装80m×1500mが2本、掩体壕有蓋中型が7個、小型が7個、無蓋中型37個、建造物としては指令所、無線電信所、燃料庫、爆弾貯蔵庫などがあった。海軍の他に飛行場の西の山手を中心に陸軍の高射砲隊が約500人展開していた。
昭和20年3月21日に宮崎基地から、菊水部隊銀河隊が出撃しました。その後3月27日に『第一銀河隊』、4月2日に『第二銀河隊』、4月3日に『第三銀河隊』、4月7日に『 第四銀河隊』と『第三御盾隊(706部隊)』、4月11日に『第五銀河隊』、4月16日に『第六銀河隊』、5月11日に『第九銀河隊』、5月25日の『第十銀河隊』を最後に、未帰還機43機 搭乗員127名が、宮崎基地を飛び立ちました。