宮崎特攻基地慰霊碑奉賛会は、昭和58年に建立された「鎮魂の碑」の奉賛と英霊の顕彰を目的に発足した会です。

宮崎特攻基地慰霊碑奉賛会

 
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宮崎基地の沿革

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1943年(昭和18年)12月より、陸上攻撃機(双発※エンジン2基の爆撃機)の練習航空隊、宮崎空として開隊した宮崎基地。隊門には2枚の表札があり、右側には「宮崎海軍航空隊」、左側には「赤江航空隊練習部」と記されていた。翌1944年(昭和19年)7月より始まった空地分離(航空隊の移動等の便を良くする為に、基地が固有の航空部隊を持たないこと)により陸攻の練習航空隊は松島へ移動。その後はいくつかの陸攻部隊等が、短期間訓練基地や南方戦線への中継基地として使用した。

1944年(昭和19年)10月には台湾東方沖に接近した米機動部隊を攻撃する為に宮崎基地は前進中継基地(最終出撃基地は鹿屋と那覇)として使用(台湾沖航空戦)。これ以降フィリピン戦が始まり戦線は徐々に日本本土に向け後退し、宮崎基地は前線基地としての様相を呈していった。

そして遂に1945年(昭和20年)3月18日都井岬南東沖210㎞付近に接近した米機動部隊が艦載機を発艦させ、宮崎基地を攻撃、基地は基地機能を一時的に喪失した。この攻撃は4月1日より始まる沖縄攻略戦の事前攻撃であった。この米機動部隊を攻撃する為、3月18日より九州各地の基地より攻撃隊が連日発進した(九州沖航空戦)。

宮崎基地からは、3月21日に銀河が数機発進、内3機が未帰還となった。この3月18日から21日迄の銀河の未帰還機を『神風特別攻撃隊 菊水部隊銀河隊』として全軍布告した。

これを皮切りに、沖縄周辺の米艦隊に向け3月27日に『第一銀河隊』、4月2日に『第二銀河隊』、4月3日に『第三銀河隊』、4月7日に『 第四銀河隊』と『第三御盾隊(706部隊)』、4月11日に『第五銀河隊』、4月16日に『第六銀河隊』、5月11日に『第九銀河隊』、そして5月25日の『第十銀河隊』を最後に、未帰還機43機 搭乗員127名が、宮崎を最後の地として飛び立ち、還らぬ人となった。

その他にも一時的に海軍の指揮下に入った陸軍飛行第7・第98戦隊の重爆撃機 飛竜 が、7月1日に海軍の指揮下を離脱するまで、沖縄周辺の米艦隊に向け雷撃を繰返し、多数の犠牲者を出した。海軍側も762空K(攻撃)-501飛行隊が、6月一杯まで宮崎基地より夜間や薄暮の雷撃を繰返し、多数の犠牲者を出した。

その後、本土決戦の準備のため、宮崎基地を離れ島根県の大社基地へ順次後退した。この間、宮崎基地は度重なる空襲を受け、飛行場施設は軒並み破壊され、8月15日の終戦を迎えた。

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